ストーリー
最上紅花その価値は米の百倍、金の十倍
最上紅花その価値は米の百倍、金の十倍。
紅花は莫大な富をもたらし、
経済文化発展の礎となりました。
山形県の県の花に指定されている紅花。3世紀の奈良県纒向(まきむく) 遺跡から紅花の花粉が大量に発見されており、この頃には日本で紅花が伝来していたと考えられています。
最上川中流域の山形県村山地域を中心とした地域は、肥沃な土壌と朝霧の立ちやすい気候を味方につけ、日本一の紅花産地へと成長しました。 その生産量の多さは「最上千駄※」と称され、江戸時代後期の最盛期には全国の生産量の約半数を占めていたと記録されています。紅餅を乗せた馬一駄で米が百俵買える、「米の百倍、 金の十倍」と謳われた大変な高級品でした。
※一駄とは馬一頭に背負わせる量でおよそ120kgほど。
紅花は最上(現・村山地域) だけでなく仙台、福島などでも作られましたが、 特に山形の紅花はその質の良さから「最上紅花」の名で全国に知られるようになりました。その背景には近江商人や山形商人の活躍があります。彼らが率いた最上川舟運によって京都へと運ばれた紅花は、華麗な西陣織や化粧用の紅などに加工され、また冷えに効く血行を良くする薬などにも利用されるなど人々の暮らしを彩り支える存在となりました。しかし明治時代に入ると、化学染料の普及や安価な中国紅花の輸入により大打撃を受け、山形の紅花栽培は急速に衰退します。一度は激減してしまった紅花栽培と紅花染めですが、戦後、農家から昔の種が見つかったことから、県の紅花栽培が復興。昭和40年には山形県紅花生産組合連合会が組織されました。
その後生産地では、染物業者や草木染め愛好者の需要に応じながら、伝統文化としての紅花、観光資源としての 紅花を守ろうと励んでいます。
私たちは紅花のことをどのくらい知っているでしょうか。紅花交易を通して山形にもたらされた富、華やかな上方文化の名残りは、いまなお艶やかに輝きを放っています。
そんな紅花にまつわるストーリーを追ってみましょう。
紅花の原産地は、中近東と言われています。東南アジアでは1株から100個以上花が咲く品種もあります。紅花の形態的な特徴として、葉の緑に鋭いトゲのある剣葉種とトゲのない丸葉種があり、現在では切り花用として丸葉種が多く栽培されています。紅花から作り出される赤い色は古来より強さや神秘の象徴とされ、日本でも魔除けの色として崇められてきました。
染料としての紅花は仏教文化とともにシルクロードを通って中国、朝鮮半島を経て日本へ伝わったという説が有力で、万葉集や古今和歌集にも紅花の別称“末摘花(すえつむはな)”と記された句が登場します。
では一体誰がここ山形へ紅花栽培を伝えたのでしょうか。日本伝来説と同様に推測の域は超えませんが、天台宗の高僧、慈覚大師(円仁)が東北の地を歩いたのも平安時代初期。慈覚大師は入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)のひとりで、当時はるかに進んでいた唐の文化を知っていた人物です。彼が宝珠山立石寺の創建に尽力したことは周知の事実ですが、その際に紅花の種を携えてきたとしても想像に難くないと思えませんか。