日本遺産
「山寺と紅花」

STORY

近江商人が山形にもたらした、富と気風

江戸末期に山形(出羽国村山郡)の絵師・青山永耕によって描かれた山形県指定有形文化財「紅花屏風」。当時の生産風景を視覚的に伝える貴重な資料。

天台宗の総本山・
比叡山延暦寺は、近江商人ゆかりの
“近江国”にあります。

東北の名古刹で山形県を代表する観光地として知られる“ 山寺”の正式名称は、「天台宗宝珠山立石寺」。天台宗の総本山である比叡山円暦寺は、“ 近江国 ”(滋賀県大津市)、近江商人ゆかりの地にあります。立石寺は、最上義光公が山形城主の時代に寺領 1,420石もの寄進を受けていました。紅花交易で富を得た近江商人もまた、手厚い寄進を行い、立石寺を支えてきました。

慈覚大師は、清和天皇の勅命を受けて立石寺を建立した際、380町歩もの寺領を寄進しました。これは坪に換算するとおよそ114万坪という広大さで、山寺に集まった僧侶や人々の数は相当数に上ったと推測できます。それだけの人々の生活を支える手段のひとつに紅花栽培があったとしても不思議ではないのですが、残念ながら慈覚大師が紅花を伝えたという資料が残されているわけではありません。ただ、戦国から江戸時代まで時が進むと、紅花と山寺の関係が推察できる資料を確認することができます。そのなかには、かの松尾芭蕉が山寺へ向かう道中に天童市下荻野戸で詠んだ「眉掃(まゆはき)を俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」の句に紅花が登場したり、隣接する高瀬地区が朝霧の立つ栽培適地であるということなど、当時の面影が偲ばれるものが山寺周辺には点在しているのです。

山形市の『紅の蔵』は、紅花商人として活躍した長谷川家の屋敷や蔵を改修した施設。

上方文化と江戸文化が共存する、
山形ならではの蔵座敷。

近江商人にとって慈覚大師が開いた山寺は、強く惹きつけられる存在でした。また、最上義光公は商才のある近江商人を山形へ誘致することによって上方との取引を盛んにしようと動き、山形城の城下町(現在の十日町~七日町界隈)に土地を分けて店舗を構えさせ、地元の商人とともに紅花交易を盛り立てました。そうして富を築き上げた紅花商人たちは現在も商いの形を変えながら山形の経済をけん引しています。街の景観も然り、とくに山形市内に今でも残る蔵屋敷は、紅花交易で伝わった上方の座敷蔵文化と羽州街道により伝わった江戸の店蔵文化を兼ね備えており、独特の風情を醸し出しています。また、紅花交易は山形の秋の風物詩である芋煮会や、山形の食卓に欠かせない「おみづけ(近江漬け)」など、食文化にも影響を与えました。

現在、山形の家庭料理として親しまれているおみづけは、近江商人が考案したといわれる。